全日本 女子 プロレス。 『全日本女子プロレス』 本当にあった“最狂”にヤバイ話を吉田豪が語る

女子プロレス界の女帝・ブル中野さんだから知る「底辺の食事」と「頂点の食事」

全日本 女子 プロレス

歴史 [ ] では、すでに1930年代末には女性プロレスラーが存在し、男性プロレスラーによるプロレス興行の中で試合を行っていたと言われている。 においては、戦後間も無い1948年2月、の小さな道場にて相手の興行としてスタートし、歴史的にはがプロレスを始めるよりも前に存在している。 ただし、その当時の女子プロレスは、主な試合会場が芝居小屋やや劇場等で、試合も対戦相手のガーター(下着)を奪い合う()と言ったお色気を強調したものであり、現在開催されている女子プロレスとはかなり違うため(現在に当てはめるとに近い)、これをプロレスと呼ぶべきかは意見の分かれる所である。 なお、上記を女子プロレスと定義した場合は、日本人最初の女子プロレスラーはとの妹である猪狩定子だと言われている(猪狩定子は全日本女子プロレスの記念興行で「日本人最初の女子プロレスラー」とされることから女子プロレスの殿堂入りとして表彰されている)。 この様な形で始まった日本の女子プロレスだが、力道山の「プロレスは女にできるものではない」という意向で圧力がかかり 、1950年に警視庁から禁止令を出されて一時姿を消した後の1954年11月19日、在日米軍慰問のために訪れた世界チャンピオンの、ら当時の全米トップ選手を招きを始めとした大会場にて興行を行い、満員の観衆を集め大反響を得たため、それまでのお色気を強調したものから現在のプロレスに近い形が出来上がっていくことになる。 また記録映画として「赤い激斗」が制作された。 これを機にいくつもの女子プロレス団体が乱立したものの、これらはにまとめられ、最終的には現在の興行形態を作ったが女子プロレス団体として勝ち残り、1970年代後半にの登場により女性ファンの人気を集めブームとなり、それ以降もなどスター選手は女性人気を得ることとなった。 1990年代に入りやと業務提携を結んだ全日本女子が提供試合をしたことで男性ファンから注目を集め、女子部と全日本女子の対抗戦が契機となり、全日本女子を中心に団体対抗戦がなどの大会場で行われるほどの人気を得た。 団体対抗戦は総じて負傷必至の消耗戦であり「勝っても負けても良い試合をして次の試合につなげる」というプロレスの鉄則を破るものであった。 クラッシュ・ギャルズ以来の女子プロレスブームが起こり女子プロレス単体でゲームソフトが発売されるほどだった。 現状 [ ] この節にはが含まれているおそれがあります。 問題箇所をしして、記事の改善にご協力ください。 議論はを参照してください。 ( 2011年11月) 女子プロレス団体の場合はでの興行がビッグマッチとなる程度の規模にまで縮小している。 主な理由として以下の様なものが挙げられる。 対抗戦による大物選手同士のカードが消尽された と女子部の試合を契機に当時の全ての女子プロレス団体(全日本女子、FMW、、)が対抗戦に参加して人気を博すものの、各団体の思惑から対抗戦が乱発されて大物選手同士の対抗戦ですら日常的になってしまい、試合カードの希少性が失われた。 また団体を超えたチームも多く組まれ、対抗戦から交流戦に質が変化したものの、対抗戦ほどの熱狂は得られなかった。 選手主導の素人による女子プロレス団体の運営と契約問題 全日本女子では絶対的な経営者が居たが、が崩壊する頃から選手が団体の運営に大きな影響を与える行動が見られるようになった。 ギャラ未払いでの団体からの離脱というケースなど法的に問題の無いケースもあるが、新人から育て上げてきた選手が一方的に引退、団体離脱宣言をした直後に他団体で試合をするなど、もはや契約で成り立っているプロスポーツとは言えないような状況も発生するようになった。 また経営の素人である選手が女子プロレス団体を運営する事により、興行が小規模化し売り上げも落ちた為に、傘下の選手達も十分な練習と指導が受けられない環境となり、試合のレベルも落ち、プロの団体とはかけ離れた会社運営となっていった。 女子プロレス団体の分裂と小規模の女子プロレス団体の乱立 日本の女子プロレスの中心となっていた全日本女子プロレスから人気選手が相次いで退団し、新たに女子プロレス団体を設立したりフリーになる者が増えた。 また団体のみならず選手が単独あるいは複数のユニットによる興行(プロモーション)も開催されるが、選手の貸し借りが恒常的に行われているため、どの興行でも参加している選手に差が見られず興行の差が乏しい。 法人登記するよりも個人ないしはユニットで興行を開催する方が金銭的などのリスクが少ないことも興行数の増加を招いた。 認知度不足 細分化により発生した小規模の女子プロレス団体は資金力が乏しいため移動と宿泊などの経費がかかる地方巡業と興行が開催できない。 当然、興行は首都圏での開催に集中してブームが去り減少したファンと観客(後述)を奪い合うことになる。 また地上波テレビ放送は全日本女子の放送が打ち切られて以降は、が深夜に、2009年にが期間限定でを放送したのみである(2020年からがで放送開始)。 スポーツ新聞などマスコミでの取り扱いもごくわずかであり、が制定する「」における「女子プロレス大賞」が2004年から5年連続該当者なしであったのがその象徴とも言える。 新人スター女子選手が生まれなかった - 高年齢選手中心の運営 ほとんどの女子プロレス団体に共通して発生した問題であり、ベテラン選手は対抗戦ブームの際に得た知名度のため各女子プロレス団体の中核となり、メインイベントに出場して一線から引かなかった。 彼女らがキャリアを積み重ねる一方で多くの新人がデビュー後から数年で引退。 ベテラン選手の知名度、集客力、スポンサーへの訴求力は経営上必要であったが結果として若手選手が注目を浴びる機会が減少していった。 全日本女子はかつて「25歳定年制」を定めていたため女子選手層の入れ替えが強制的に行われていた。 しかし対抗戦ブームの際当時の人気選手のに定年免除を認めて以降、同制度は事実上消滅。 この結果、現在の女子プロレスではトップクラスの選手の年齢は40歳前後となっており、2008年に引退したは46歳まで30年に渡って現役であった。 世代交代が進まないうちにベテラン女子選手も相次いで引退したため選手層が非常に薄くなり解散に追い込まれた団体も少なくない。 女子プロレスの持つ華やかさが薄れて強さや激しさを求めることとなる一方で、若い選手が多く出場する女子総合格闘技の興行が増えて一部のファンが流れたことも衰退の原因の1つである。 また他の女子スポーツの人気が高くなり、女子プロレスラー志望の女性は少なく珍しいものとなっている。 プロスポーツの細分化 上記の話に関係するが、かつては女子プロスポーツと言えばプロレス以外にはゴルフ、テニス、ボウリング等限られたものしか無く、それらはプロとして生活するには相当の投資が必要となるため何も無い状況からプロとして生活出来るのはプロレスしか無い状況だった。 しかし現在はプロとアマチュアの垣根が無くなり、どんなスポーツでもスポンサーがつけばプロとしてやっていけるためにプロレス以外の自分の好きなスポーツを職業として選ぶ女性が増えてきたことも挙げられる。 特に柔道、レスリング、テコンドー等がオリンピック正式種目になったことで格闘系スポーツを志向する女性の大部分は五輪金メダルという大いなる栄誉が得られる、それらのスポーツに流れてしまい女子プロレス界の人材確保をより一層難しくする結果となっている。 ファン層の変化 ビューティ・ペアやクラッシュ・ギャルズがスターとして活躍していた際は宝塚歌劇団の様に女性ファンが大半を占めていた。 1990年代の対抗戦ブームでは男性ファンの割合が高まる代わりに従来の女性ファンは減ってしまった。 ブームが去り女子プロレス団体の分裂と縮小期に入ると対抗戦ブーム時の男性ファンも去ってしまったためにファンの絶対数が激減。 辛うじて元クラッシュ・ギャルズのを中心としたが1990年代以降も女性ファンを多く獲得していたが参戦選手の半分近くをフリーに依存していたことなどが原因となり現在は解散している。 以上のことから、女子プロレス団体は初心者への参入障壁が高く、しかも新規ファン層を取り込む機会が乏しいジャンルとなり、固定ファン向けの方向性を進み続けている。 だが最近はその固定ファンさえも、カードのマンネリ化と選手の高年齢化から女子プロレスを見限りつつある。 2010年以降は細分化の末に、アイスリボンの一部所属選手、などが芸能界からの参入が増えた。 またによるとファイトマネーに関して新人選手に限れば男子選手よりも高額なことが多く、収入も比較的安定しているという 上向きな傾向もみられる。 2016年12月29日、長与がホストとなり、さいたまスーパーアリーナで「レジェンド女子プロレス〜ファイティングガールズ〜」を開催。 全女子プロレス団体を集めるとしたが参加したのはJWP、、アイスリボン、、、Actwres girl'Z。 試合は2017年2月3日にフジテレビで放送された。 諸外国の女子プロレス [ ] 女子プロレス自体は、、、などのの国でも存在している。 韓国では女子だけで興行を行うことは無いが、アメリカでは以前には、POWW、の女子プロレス団体も存在し、現在も、、、のような女子のみの団体が存在している。 またメキシコにもLLFやWWS、イギリスにものような女子プロレス団体が存在しているが、どちらもスタジオマッチや常打ち会場等での興行が主でありのような全国を回るような興行形態では無い。 それを考えると日本の女子プロレスは非常に稀有な存在であると言える。 しかし、日本においても女子プロレス団体の衰退が著しいことから、大都市や所属選手の地元等、集客が期待される場所での興行が主流となり、かつてのような地方興行は減少している。 また日本でも多くの女子プロレス団体で男子の試合やを興行に組み入れるようになっている。 北米では女子プロレスの俗称として「 Chick Fight」と呼ばれているが近年では日本の女子プロレスが評価されて「 Joshipuro」と呼ばれるようにもなった。 アメリカのインディー団体の1つであるACWでは女子部を「American Joshi」としている。 服装 [ ] で行われた民族衣装による試合。 特に女子プロレスでは試合用の服装のことをリングコスチューム、それを略してリンコスと呼んでいる。 の黎明期からは長い間はシンプルなワンピース水着やレオタードが定番となっていた。 それまでのお色気を払拭してスポーツ色をより高めることの表れであった。 レスラーの場合は下にロングタイツを着用する場合が多い。 1990年代までのアメリカも同様にレオタードが定着していた。 かつてはが全盛を極めていた当時はデビュー直後から1年間、新人女子選手のコスチュームといえば、スクール水着タイプのコスチュームとアマチュアレスリング用のシューズというのが定番のスタイルであった(同じようなパターンは男子レスラーでも同じであり、新人のコスチュームは黒いショートタイツに黒もしくは白いリングシューズという俗に言うと呼ばれるものが定番として挙げられているが、団体によってはカラーのショートタイツも採用されている)。 一方でアイドルから転身したは全盛期にハイレグなどセクシー面が強調されたコスチュームを使用するようになった。 の全盛期になると競泳水着がポピュラーとなる。 しかしが旗揚げされると、フリルやレース付きコスチュームが登場。 その後もセパレート型やユニタード型など多様化が進んだ。 などでは私服に近いコスチュームでリングに上がる場合もある。 などいわゆるコスプレで試合を行う選手も少なくない。 ただ女子プロレスでは長年水着が定着していたため水着を改修したものを主に使用しており、最近まで水着とは似つかぬものも含めてコスチュームのことを水着と呼んでいた。 一方でキャリアを積んだ選手は試合あるいはシリーズごとにコスチュームを変える場合もある。 は初来日の時にコスチュームを6着持参した。 また先輩レスラーが使用していたコスチュームを後輩レスラーが譲り受けることも多い。 デビュー直後の新人選手などは競泳水着が元となったものやユニタードなどシンプルなコスチュームで試合をする事がかつてより減少したものの今もある。 一部の身体の細い新人選手が昔のリング入場時のガウンを思い起こすようなフリフリのリングコスチュームで試合をした事があったがファンからは関節技を掛けていても技が分かり辛いなど大不評だった。 の設立時は身体の線が見えるシンプルなコスチュームは団体の路線や女子選手のテクニックが見えやすいなど評価が高かった。 未だにワンピース水着タイプを好む昔からの女子プロレスファンは多く、競泳水着を着用してアイドルや女優が女子プロレス(プロスタイル、)の試合をするDVDソフトも人気がある。 またのように、元々女子プロレスファンだった選手がワンピース水着タイプを愛用するケースも存在する。 のの場合、セクシーさを前面に押し出したコスチュームを使用することが多い。 一方、北米インディ団体やのでは現在もレオタードは少なくない。 特色 [ ] デビュー [ ] 女子プロレスの場合は多くの団体で「オーディション」と「プロテスト」の2段階を踏まなければデビューできない仕組みとなっている。 このシステムはの全盛期のにて導入されたもので、希望者の殺到により1度にプロテストを行うことが困難になったため、前段階としてオーディションを行い、そこで選ばれた者数名を候補者として一定期間後にプロテストを受けさせた。 後に練習生制度を取り入れたがプロテスト受験を必須としたのは変わらない。 その後もこれを継続して他団体も追随する形で導入している(男子団体でも元全女のが代表を務めるで同様のシステムを取り入れている)。 かつての全日本女子では義務教育修了(または見込)者で18歳以下をオーディション受験資格と定めていたが、25歳定年制の事実上廃止や女性の高学歴化・晩婚化もあり、上限は22歳まで引き上げられた。 近年は女子プロレスラー志願者が減少していることもあり、のように2段階選抜を撤廃して門戸を広げる団体も現れている。 また一部女子プロレス団体では年齢制限を撤廃したり拡げるなどしているため、現在では小中学生レスラーや25歳以上でデビューした遅咲きの選手もおり、デビュー年齢の差も上下で大きくなっている。 階級 [ ] 男子プロレスの場合は100kg前後を境にヘビー級とジュニアヘビー級に分かれるが女子は基本的に無差別級である。 ただし一部女子プロレス団体では体重別階級の線引きをしており、この場合は60kg前後で分けることが多い。 体重制限のあるタイトルとしてはかつての全日本女子の、のが存在していた。 ジュニア [ ] 男子における「ジュニア」は上述の「ジュニアヘビー級」を意味するが、女子ではデビューからのキャリアが浅い若手を意味する。 ジュニアにカテゴライズされるキャリアは団体によって異なるが各女子プロレス団体のジュニア女子選手を集めた「」では「5年以内」と規定していた。 またジュニアを対象としたタイトルも存在して全日本女子の、現存するものではのがそれに当たる。 なおでは「ヤング」と表現している。 アイスリボンのは、4代目王者決定トーナメント以降にデビュー3年以内もしくは19歳以下に規定を変更して実質的なジュニア王座となっている(現在は規定廃止)。 がと合同で創設したはデビュー10年以内と対象が大きくなっている。 芸能との関わり [ ] 女子プロレスと芸能の関係は非常に深い。 1970年代に活躍したはレスラーと並行して歌手としても活動して女子プロレスの地位向上に貢献し、引退後はタレントに本格転向。 マッハはいわゆるタレントレスラーの嚆矢となり、この流れは後にに受け継がれ、彼女らのレコードが大ヒットするなど社会現象を起こした。 一方、全日本女子では所属選手の映画やドラマ出演も積極的に行われ、女子プロレス団体自体が全面協力することも多かった。 以降も女子プロレスラーは歌手、女優のみならず、、のようにキャラクターを生かしてバラエティ番組に進出したりやのように写真集を出版するなどリング外にも活動範囲を広げていった。 また女性タレントが女子プロレスラーになるケースもある。 その先駆けはアイドル歌手出身のでビューティー・ペアの引退後の全日本女子を支えた。 近年では映画や音楽などとリンクして女子プロレスラー発掘を行うこともありアイスリボンとが全面協力した「」では出演者に女子プロレスラー活動を義務付けて、、がレスラーとして活動している。 2010年にはグラビアアイドルのがレスラーデビューして話題になった。 芸能事務所が女子プロレスに関わることもある。 によるやが企画したがそれに当たる。 Jd'では「」と呼ばれるプロジェクトを打ちアクションスターへの道としてプロレス活動を展開した。 またホリプロもダリアンガールズが活動停止後にと業務提携を結びオーディションを展開したり「ホリプロ女子プロレス軍団」を結成してNEOに参戦させていた。 最近ではがを所属のまま(男子プロレス団体)に参戦させている。 経営 [ ] 男子プロレス団体の場合は所属選手が社長を兼任する場合が多いが、女子プロレスではほとんどの団体でいわゆる「背広組」の男性(女性ではGAEA JAPANの杉山由果の例あり)が代表に就任している(例として、JWPの篠崎清、アイスリボンの、スターダムのなど)。 しかしLLPWでは団体設立の背景から初代のから現在のまで代々所属選手が代表を務めている。 またはが代表を務める会社が運営しており、2011年に設立されたもが代表に就任し(新法人移行とともに退任)、さらにでは新法人設立にあたり(現在は選手引退)が、も2011年7月の()の代表退任に伴い後任としてがそれぞれ就任しており兼任代表は増えつつある。 過去の女子プロレス団体では、の初代代表にが就任し、後に一時引退していたが代表代行を務めた。 さらにで一時的ではあるが元の(NEOではリングアナウンサーとして活動していた)が代表を務めたことがある。 女子プロレス団体一覧 [ ] 現存している日本の女子プロレス団体 [ ]• (1992年8月29日にLLPWとして旗揚げ - 2011年11月15日に団体名をLLPW-Xに改称 - )• (2006年6月5日 - )• (2006年7月9日 - )• (1998年6月21日にプロモーションとして旗揚げ - 2006年10月23日に団体化 - )• (2007年8月26日 - )• (2011年1月23日 - )• (2011年4月17日 - )• (2012年6月18日 - )• (2013年9月8日 - )• (2013年12月1日 - )• (2013年12月31日 - )• (2015年9月6日 - )• (2017年8月11日 - ) 消滅または休止している日本の女子プロレス団体 [ ]• (1953年 - 1967年)• (1954年 - 1967年)• (不明)• (不明)• (不明)• (不明)• (不明)• (不明)• (1967年4月29日 - 1972年)• (1968年6月4日 - 2005年4月17日)• (1979年10月20日 - 1979年11月30日)• (1986年8月17日 - 1992年1月28日)• (1992年4月3日 - 2017年4月2日)• (1995年4月15日 - 2005年4月10日)• (1998年2月18日 - 2003年6月22日)• (1998年1月9日にネオ・レディースとして旗揚げ - 2000年1月6日、2000年5月31日に団体名をNEO女子プロレスに改称 - 2010年12月31日)• (2003年7月25日 - 2006年5月3日)• (2003年10月17日 - 2004年5月1日)• (2004年4月4日 - 2006年10月8日)• (2004年10月31日 - 2007年1月27日)• (2006年10月1日にプロレスリングSUNとして旗揚げ - 2007年10月6日に団体名をCHICK FIGHTS SUNに改称 - 2009年4月26日)• (2010年3月21日 - 2017年2月12日)• (2010年6月1日 - 2011年8月26日 - 2012年までインターネット番組としては継続)• (2011年6月3日 - 2016年6月26日) 日本の女子プロレスプロモーション [ ]• (1996年4月14日に女子プロレス団体「吉本女子プロレスJd'」として旗揚げ - 2003年4月に団体名をJDスター女子プロレスに改称 - 2004年4月29日にプロモーション化 - 2007年5月20日)• (2005年6月5日 - 2015年11月)• (2006年1月6日 - 2006年11月23日)• (2006年7月22日 - 2008年3月23日、2015年3月15日 - )• (2006年7月28日 - 不明)• (2006年9月23日 - 2010年12月26日)• (2012年3月11日 - 2016年8月11日)• (2015年8月26日 - ) 海外の女子プロレス団体 [ ] アメリカ• (1986年 - 1991年、2001年 - )• (1987年 - 1990年)• (1989年 - 1992年)• (1992年2月 - )• (2002年2月 - )• (2005年11月6日 - )• (2015年7月15日 - ) メキシコ• (2013年 - ) オーストラリア• (2007年 - ) イギリス• (2010年5月8日 - ) タイ• (2012年9月6日 - ) 女子プロレスを題材にした作品 [ ].

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「女子プロレス界のレジェンド」ブル中野さん【レスラーめし 第4回】 日々、リング上で熱い闘いを見せるプロレスラーたち。 その鍛えた身体を支えるための日々の食事はもちろん、レスラーを目指していた頃の思い出の味、若手の頃に朝早くから作ったちゃんこ、地方巡業や海外遠征での忘れられない味、仲間のレスラーたちと酌み交わした酒……。 プロレスラーの食事にはどこかロマンがある。 そんな食にまつわる話をさまざまなプロレスラーにうかがう連載企画「レスラーめし」。 第4回に登場していただくのは元・全日本女子プロレスの「女帝」 ブル中野さん。 現在の中野さんは、あの髪を半そりや逆立たせたいかめしい姿とギロチンドロップで相手選手をなぎ倒してたころからは想像もつかないスレンダーな美女。 その変貌についてはテレビなどで広く紹介されたので、ご存じの方も多いと思います。 「極悪同盟」の一員としてダンプさんの脇に控える悪役レスラーから、 女子プロレスを「ベビーフェイス・ヒール関係なく試合の攻防で魅せるもの」へと進化させた革命児。 そして、WWE(当時WWF)から北朝鮮までの海外遠征で、世界に「ブル中野のプロレス」を見せつけた後、1997年に引退。 その後プロゴルファーを目指して3ヵ月で50キロの過酷な減量を行い、ダイエット本も発売して話題に。 現在は彼女を慕う後輩レスラーが集まるお店「 ガールズ婆バー・中野のぶるちゃん」を経営している中野さん。 その選手時代から選手後までの苛烈すぎる「食の思い出」をうかがいました。 いじめられていた新人時代 1983年に 全日本女子プロレス(通称・全女)に入団した中野さん。 プロテストに合格してデビューするまで時間はかかりましたが、身長170センチという恵まれた体格と絶えまぬ努力で新人のなかでも頭角を表していきます。 しかし、その新人時代は中野さんにとって地獄でした。 みんな仲が悪かったんで。 派閥があったりイジメがあったり、同期のなかでもいろいろあって。 それぞれひとりで食べていたんですか? 中野:先輩にかわいがられてる後輩は、ご飯に誘ってもらえるんですよ。 だけどそうじゃない子たちは自分たちで食べていくしかなかったんです。 でもデビュー前の新人時代はお金がないんですよ。 初任給が5万円で、寮費に5千円取られて、残り4万5千円でどうにかやんなくちゃいけなくって。 お米だけは支給されるんで、おかずは自分たちで……。 中野:ちょっとはやりましたけど、人気がある 先輩たちがもらった差し入れの食べ残しを食べるとか、そんな感じでしたね。 主食は食べ残しでしたね、本当に(笑)。 それで生き残っていくしか、いじめられた新人は生き残っていけなかったんです。 中野:そうですね。 先輩にかわいがられるタイプじゃなかったんで、誰にも食事とか誘ってもらえなかったです。 もう半年くらい口を聞いてもらえないとか、毎日地方巡業なんですけど、試合が終わった後バスの中でずっと立たされるとか、あと当時は殴る蹴るは日常茶飯事で。 ちなみに中野さんはなぜ先輩からのターゲットになったと思います? 中野:要領が悪かったし、仕事もできなかったし。 あと、そういうのが目立つってことはお客さんから見ても目立つんですよ。 だから「今のうちにつぶしておこう」って。 中野:はい。 全女で今までいじめられずにトップに立った人はいないです。 いじめられる子ってのは、目立っているってことなんで。 だからやられるんです。 だからといって、いじめられるとかありえない話ですけども。 そんななか、先輩からかわいがられる人ってどういう人なんですか? 中野:やっぱり要領のいい奴ですね。 でも要領のいい奴って結局最後までいないんですよ。 結局わたしみたいな、いじめられていじめられて、それでも残った奴ばかりがいるんで。 本当に全女でトップ選手になった人ってのは、ひどいやつばかりだと思います。 中野:プロテストに受かると試合に出られるようになって給料も上がるんですけど、わたし一番最後までプロテストに受からなくって、ずーっと4万5千円のままだったんですね。 ある日、同期が切り落としたきゅうりの端っこを三角コーナーの中に捨ててたんですよ。 それを食べるか食べないかで、すっごい迷いました。 これを食べたら自分がすごく惨めになるし、負けた気になるんで。 でもきゅうりは食べたいし……そういう葛藤はしょっちゅうでしたね。 中野:あと業務用のすごい大きな紅しょうががあったんですけど、月末はそれをご飯にかけて食べてました。 今日は紅しょうがいれて、次の日はしょうゆ、その次は味の素、ていう感じで食べてたんです。 本当に食べ飽きるくらい食べていたので、給料をもらえるようになってからも、しばらく紅しょうがは食べられなかったですね。 見ると思い出して具合が悪くなるんですよ。 本当に毎日、食べていたんで。 中野:だから本当に人気者になりたかったし、お金持ちになりたかったですね。 歌って踊れるアイドルレスラーになりたかった その後、全日本ジュニア王者になるなど順調に出世していった中野さん。 しかしある日を境にダンプさん率いるヒール軍団「 極悪同盟」の一員として、本名の中野恵子から悪役レスラー「ブル中野」に変貌。 髪の半分を丸がりにし、ヌンチャクを凶器に当時人気絶頂のクラッシュギャルズと抗争を繰り返す日々。 その闘いを通してメインイベンターに成長していきました。 中野:最初は歌って踊れるアイドルレスラーになることを夢見て上京してきたんですけどね(笑)。 中野:同期の中で一番大きかったからですかね。 それで「お前はデブでブスなんだから悪役しかないんだ!」って言われ続けて、洗脳されて最後は「はい」って言うしかなくって。 回転寿司とかもなかった時代なんで、本当のお寿司屋さんに行って。 でも新人だからお金なくって、カッパかタマゴばかり食べていました。 中野:はい。 それでダンプさんが「いいよ、今日はおごってやるよ」って言われて「トロ!」って言ったら「いい加減にしろ!」って言われたの覚えてますね(笑)。 中野:めっちゃくちゃもらってました。 昔は振込みじゃないから手渡しで現金をもらってたんですけど、 ダン! ダン! ダン! って立つ封筒が3個とか。 売れたらこうなるんだ、って思いました。 プロテストに合格して試合をするようになって、あとダンプさんと組んでメインイベンターになれたのと、ダンプさんがドラマ出たりとかでいろいろ一緒にやるようになって、お金はだいぶもらえるようになりましたね。 それで生活はかなり安定したんですけど、寝る時間もないくらい忙しくなりました。 試合が終わってからドラマの撮影に行ったりとか、本当に寝る時間がなくって頭がおかしくなりそうでしたね。 中野:ダンプさんが体重100キロあったんで、わたしも身体を大きくしてやろうと思ってめちゃくちゃ食べました。 朝にマックと吉野家の牛丼をファンの人に差し入れしてもらって食べて、会場に行ってまた食べるものをもらったり。 中野:そうです。 ただそれでも92キロまでは太れたんですけど、なかなか100キロまでいかなくって。 それでステロイドを打ったりして100キロまでいったんですけど。 ステロイドは全女(全日本女子プロレス)専属のドクターがいて、どうしたら100キロまで行けるかを相談して、教えてもらって。 打ったら練習がすごくしたくなるとか、精神的に女性から男性に代わるから不安定になるとか、すね毛が生えて生理が止まるとか言われましたね。 一回打つたびに「これ打つと寿命縮むよ」とか言われたり。 それでも3ケタの体重になりたかったんです。 「この世のものじゃない何か」になりたかった。 中野:ダンプさんに髪を半分そられたときに、もう女は捨てようと思いましたね。 それまで実は隠れて男性ファンとつきあってたんですよ(笑)。 それも髪を切られたせいで別れちゃったんです。 しかもその後、その彼は同期の子と付き合って……。 中野:そういうのもあって「もう女性として生きるのはやめよう、わたしの生きる時間はプロレスの世界だけででいい」と思ったときに、はじめて自分はプロレスラーになれたんだろうなと思いますね。 髪を立てたまま3日間ブッ倒れたアジャ・コング戦 望まぬ道ではあったが、ヒールレスラーとして全女のトップ入りした中野さん。 しかしクラッシュギャルズやダンプさんら、看板選手が引退し観客が激減。 ただそこから自らの望む「ベビーフェイス・ヒール関係なく試合そのもので魅せるプロレス」を形にしていき、全日本女子プロレスに新たな黄金期を到来させる。 中野:それはありましたね。 行った先の一番おいしいものを食べさせてもらえるんですよ。 だいたい試合が終わったら、旅館とかで選手やスタッフ全員でご飯食べて、そのあとプロモーターさんがベビーフェイスか悪役のどちらかを呼んでご飯を食べに行くんです。 それで呼ばれるのがだいたい悪役だったんです。 ここで本当においしいものが食べさせてもらえる。 1年のうちに日本3周くらいしてたと思うんですけど、毎日毎日おいしいものばかり食べていましたね。 中野:ホントですね……でも1ヵ月くらい日本中のおいしいものを食べて、それでに帰ってきてなにが食べたいかなって思ったら、ご飯と納豆、あと味噌汁。 それだけでいいんですよね。 いろんなおいしいものを食べすぎちゃって、やっぱりこれだー! って。 フフフ。 中野:おごりだったら……(笑)。 では試合に絡めて食の話をしたいんですけど、メインイベンターになってアジャ・コング戦や神取忍戦をはじめとした大勝負があったと思いますが、試合の前日ってご飯は普通に食べられるものですか? プレッシャーがすごそうですけども。 中野:それは食べられてましたね。 絶対に体重は100キロ以下に落としちゃいけない、っていうのがあったから、起きている時は「練習か、食べているか、試合してるか」という感じでしたね。 食べてないと、どんどん体重が落ちていっちゃうんで。 食べるのが練習でしたね。 今はけっこう皆(コスチュームで)お腹出すじゃないですか。 昔はそういう衣装もそんなになかったんで。 それに「大きければいい」っていう意識が強くて、アスリートっぽく、格好良くってのはなかったですね。 ベビーフェイスのレスラーにはいくらかそういう雰囲気もあったかもしれないけど、わたしたちは女子じゃなかったんで(笑)。 中野:とにかく強ければ、っていう。 ほんとに水だけ飲んで、水着も脱げずに。 髪の毛も試合のときの立ったまんまで(笑)。 アジャが先に呼んでいた救急車にわたしが乗っちゃって(笑)。 その後アジャがまた救急車を呼んだんですけど、ふたりとも同じ病院に運ばれていたんです。 で、近くで空手の試合もやってたらしくて、そこでけがした人もいて、ベッドが私、空手の人、アジャみたいな(笑)。 普通試合した後に病院に行ったとしてもひとりだし、2人だとしても同じ病院に行くことはないですからね。 しかし3日間も食べられなかったら、その後はおかゆとかで徐々にって感じですか? 中野:どうだったかな~? すごいおなか空いて、焼肉を食べに行ったと思います、井上京子と(笑)。 中野:その頃は 獄門党(極悪同盟の後、ブル中野さんをリーダーとして結成したヒール軍団)の皆と焼肉か居酒屋さんに行って、カラオケに行って歌って、最後はファミレスでハンバーグステーキとかそんな感じでしたからね。 中野:特に京子は本当にお酒が強かったんで、毎日一緒に飲んでましたね。 京子が右と左で箸を使って、わたしの肉を焼いてわたしの皿に入れて、もう片方で自分のも焼いて食べるってのが出来るようになるくらい。 「いいよ、気にしなくて」って言っても「大丈夫です!」ってやるんですよね。 中野:いえいえ……。 でも本当にプロレスの話ばっかりしてましたね、食事の時も。 頭の中は24時間プロレスの話。 獄門党ってみんなそうで、絶対一番になろう! と思ってる子ばっかりでした。 そういうところでも「自分が自分が」って感じでしたね。 お酒ってのは……。 中野:ガンガン飲んでました(笑)。 いちおう「見つかんなよ」ってプレッシャーはあるんですけどね。 会社が目黒にあったんで武蔵小山に住んでる子が多かったんですけど、あのあたりはけっこうレスラーが住んでいたから行きつけのお店が多かったんですよ。 そういうお店に行くと内緒にしていてくれるから、よく行ってましたね。 あの頃はバブルだったんで、アイスペールの中にヘネシーですよ(笑)。 それで「一気しろ」とか、毎日毎日吐くまで飲まされて。 このゴミ袋(ビニール袋)を耳にかけさせられるんですよ。 それだと飲んだ後すぐ吐いていいよ! って。 ずっと飲みながら吐いて(笑)。 すごかったです。 でも私がトップになってからは本当に飲めない後輩が増えてきたんで、そういう子には飲まなくてもいいよって。 そういう人達は吐いた人の介抱をすることになるんですけどね(笑)。 引退後、2度の過酷なダイエットとの闘い 93年からは、WWFやWCWなど海外マットでも活躍した中野さん。 97年に左靭帯(じんたい)を切る大けがに見舞われ、プロレス引退を決意する。 2012年の結婚を機にやれていなかった引退興行を行い、ほぼ現役時代の身体でリングに登場してファンを驚かせた。 現在は「ガールズ婆バー・中野のぶるちゃん」のママであり、タレントとしても活躍中だ。 本も出されています。 「部屋中を青色にして食欲を減退させる」という減量法で広く取り上げられましたよね。 中野:引退の時は115キロで、それから3ヵ月で65キロまで減らしましたね。 中野:その間は糖尿病の人と同じ食事をしてました。 1日1,200キロカロリーで、それに毎日ジムやプールで運動して。 でも正直、部屋を青にした効果ってあったんですかね? 中野:青にしたからじゃないんだと思うんですけど(笑)。 絶対中野さんの意思の強さだと思います。 ただ痩せるために運動するといっても、プロレスで相当けがもされているでしょうし、大変じゃなかったですか? 中野:はじめは全然歩けなくて、プールで1日中歩くところから始めて。 プールで歩いてても膝が外れちゃうぐらいだったので、徐々に徐々に歩く距離も伸ばしていって。 それでそれまでのプロレスラーの筋肉を、ゴルフ選手の細い筋肉に変えていくトレーニングをずっと続けていって。 そのためにも痩せなきゃいけないと。 中野:ただジムに行ってる3カ月の間、事務の人たちが私がみるみる痩せていくから「悪い病気になっちゃったんじゃないか」ってうわさが広まったんですね。 でもそれぐらい毎日毎日痩せていくんですよ。 ジムのトレーナーの人とは相談しながらやったんですけど、立ちくらみしたり、もっとスローにしたほうがいいとか毎日話しながら。 しかも2012年には引退試合のために「レスラー時代の身体に戻したい」とまた100キロまで戻します。 中野:100キロに戻すっていうのもすごい大変で、それが9カ月かかりました。 中野:やっぱり自分の限界が90キロで、そこからが増えなくって。 でもプロレスの練習を始めて動くようになって、また食べるようになって。 それでまた100キロまで行けたんですけど難しいですね。 今回はステロイドとかを使わなかったんで。 ヒールだからずっと笑顔を出せなかったのが、最後に笑って引退出来て。 中野:でも全然膝が駄目でしたね。 靭帯(じんたい)を切っちゃったのと、半月板も取っちゃってるんで、片方だけ足がどんどん短くなっていくんですよ。 なぜそこまでするのか、というか、もうちょっとある程度のところで……という感じにはならなかったんですか? 中野:前は運動して痩せられたんですけど、今度はもう運動ができなくなったんですよ。 普通の生活をするには膝を人工関節にしなきゃいけなくなって、人工関節にするためにはまず痩せなくてはいけない。 でも運動できないから痩せることができなくて、じゃあ胃を切ってそれから人工関節にしようということになったんです。 それだけレスラー時代のダメージが響いて。 中野:そうなんです。 それで胃を切ったらすごい痩せて、その結果人工関節にしなくても歩けるように今なったんですけど。 ただ、胃を切った最初の頃は水も飲めなくて。 ペットボトルのキャップでちょっと飲んで吐いての繰り返しでしたね。 とにかく何も食べられないし飲めないので、脱水症状と栄養失調で半年ぐらいベッドから起きられなかったです。 胃を切ってもすぐに食べられる人と全く食べられない人と何年間経っても食べられない人と、いろんな種類がいて、「やってみないとわからない」とは言われていたんですけど。 それでやってみたら、今2年半経ったんですけどちょっとずつ食べられてるんで、良い方だったと思うんですけど。 今、食事はどんな感じなんですか? 中野:液体のものはどんどん吸収して負担がかからないので大丈夫なんですけど、固形物だと具合悪くなっちゃったりするんで、食事はサプリとおつきあいで行った時にちょっと食べるぐらいで。 普段は1人前を1日かけて食べるって感じです。 ただ、ちょっと食べるとすぐおなかいっぱいになるんで満足感はあるんですよ。 すいません、食べる取材なのに。 しかも現在進行形で。 中野:でもお酒は基本毎日飲んでます。 お酒で糖質取ってます(笑)。 中野:「ガールズ婆バー」です(笑)。 プロレスラー時代に習ったことで今一番役に立っているのが、ダンプさんに無理やり飲まされたお酒なんですよ。 普通の人に「プロレスやろうよ」って言っても無理だし、ヌンチャクも何の役にも立たない。 でもお酒だけは今でも役に立ってますね。 あとゴルファーを目指した時に、一般の方とお話をするっていうことを覚えたんです。 プロレスの時はお客さんと話をしちゃいけなかったし、笑ってもいけなかった。 壁を作らなきゃいけない仕事だったのが、今は入ってこさせなきゃいけない。 ゴルフをやってなかったら、お客さんとの会話とか出来なかったかもしれない。 しかもプロレスやゴルフ以外のことで。 中野:そうですね。 役に立ってますね。 プロのゴルファーにはなれなかったけど、その時に学んだことがいっぱいあって、現役当時にやっていたことは無駄じゃなかったなと思います。 今の柔らかな笑顔から想像もつかない、壮絶な体験の数々を聞かせてもらったブル中野さん。 現役時代の異名は「 女帝」。 撮影:平山訓生.

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全日本女子プロレス崩壊・長与千種からASUKAへWWE無敗の日本人女子レスラー

全日本 女子 プロレス

基本的には金と喧嘩と揉め事みたいな話しかしてないですから。 あとヤクザとか、皆さんの好きな話ばかりが詰まっています(笑)。 久田: 赤城マリ子さんが万年東一さんの名前を出してたのすごいと思いました。 吉田: 万年東一さんというのは、どういう人かちょっと簡単に。 新宿の喫茶店で色々なヤクザの相談に乗っていた方です。 赤城マリ子さんが、万年東一さんのことをすごく話しているんで、ええっ! と思った。 博徒、テキ屋とともに、現代型の暴力団の三大源流の一つといわれる。 久田: 戦後史として面白いですよ。 だから、僕は赤城マリ子さんの話が面白かったですね。 吉田: 万年東一さんが、女子プロレス絡みを仕切っていたんですよね。 久田: 全女の初代会長でしょ? 吉田: スタートから、ちょっと黒いというかデタラメというか(笑)。 久田: 赤城さんは言ってたじゃない? 「戦後の興行はみんなそうだったのよ」とかさ(笑)。 UWFが実現できなかった「ガチの興行化」を成し遂げていた全女 吉田: 本当にUWFが、あれだけいろいろ頑張ってたどり着かなかったガチの興行化を全女がやってたというのが恐ろしいところですよ。 それが試合として面白いかどうかは別という話なんですよ。 言っていたのはやっぱり大技からのフォールにならないらしいんですよね。 すごく小さな技からのフォール。 吉田: 考えてみると、どんどんすごいなと思ってきたのが、三禁という酒と男とタバコを禁じるルールがあったわけですけど、その結果、何が起きるかと考えたら外で息抜きすることができない、外で恋愛もできない。 その結果、女同士の揉め事が増えるんですよ。 それで試合が面白くなる。 そして、賭け事が成立しやすくなるみたいな……そういう発想でやっていた気がするんです。 僕が思ったのが、昔、相撲で貴闘力さんが貴乃花さんとかと組んで相撲をガチ化させようとして、それがあったから野球賭博だ何だの時に相撲界追放みたいになったわけですけど……。 そういう、なぜ相撲界をガチ化させようとしたのかと探ったら、ガチにしたら賭け事が成立するから(笑)。 あの人ギャンブル狂だから、相撲をギャンブルにしたかったらしいんですよね。 ギャンブルにするにはガチしかないという。 もしかしたら、全女もそういう発想だったんじゃないかと思うんですよ。 賭けたいから、賭けるにはガチでみたいな。 すごくシンプルな発想だった気がするんですよ。 UWF的な高い理想とか関係なく、俺たちは賭けたいんだから、そりゃガチだろうみたいなね。 久田: なるほどね、それ当たってるかもしれないですね。 吉田: 高い理想よりも、目の前のそういう賭け事の方が。 久田: 欲望を優先したみたいな感じですね。

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